mimi's world * HOPE and DESIRE

_______ BE-lie-VE * be-LIE ve * believe...the SHAMs for heart healing * mimi's world-7 _______

BLUE MARBLE - Prologue.Uno - 





If you are like this person, how you going to think about own future

SO LONG

The time goes as never stoped by own decision as of own Judgs or by the another

For owning owe


- From far away beyond Most beautiful sea in the Blue Marble -







こんなひとがせかいのどこかにいる


彼方だったらどうみらいをかんがえ


さよならのときときめたいですか?









これは 二次ではありません





運命って偶然起こる 不可思議な解明できない未知

たまたまの偶然

本当にそう思いたい・・・



そんな本 物語と出逢いました。


11巻までを、私の元に置いて行き

この11月に9年、あれから8年も時が経っている。




   継承の永に 
  
   迎春の故国
  
   心惜しむ程に寄せる

   想いを故国の旅に向  ― 美海




その方に送った、私からの挨拶には、餞の未来に願いを込めて

私の心の中に答えがある様で、この心の中に消えないまま

これからも時を過ごして行くだろうと、罪と罰の様に刻まれている



18 この数字に・・・・




運命って偶然なのか必然なのか

生命の未知の中、自由に無意識が止無処流廻のだろう



止まり無き

処 とは、処刑に処罰に場所の執行処

流れ廻り続ける

想いこそ、心の中に忘れえぬ思い出となる




私の想いは・・・

心の中に 永久に残って欲しいと願う 思いに・・・

心の中の 永遠に消えない罪からの釈放が欲しいと願う・・・



2つの気持ちはいつも 混ざる様で交ざらない


罪の意識の免除 
法で裁かれるのであれば、その期間を申し受け渡される

でも、この気持ちから釈放される想いが沸く時って・・・

どんな気持ちだろう

この気持ちから釈放される免除の時間とは・・・

どれだけの命時間だろう




永遠に・・・ 無期懲役のまま




  そう思う 


    ・・出あい




 あい 


 会い で・・


 遇い で・・


 逢い で・・


 遭い で・・


 合い は・・・・       愛か・・  










Fairy and Angel Cloud in ARUBA Photo by mimi*美海©From far Away Beyond Beautiful Sea All RightReserved.








   まず・・・ 


   体験という事から書きたいと思う






私は 子供のころから自分で変わった子 ・・・ なのか?

普通はそうではないのか・・・?

普通って、何?・・・・


そう考える子供でした。









私は日本人です。



母方にも父方にも先祖、私に程近い血縁者の中に、アメリカの地に行方履歴のある人が数人いる事は確かです。

私は物語を読むことが大好きです。

私の経験はその影響を受けたものかと言われれば、フィクション、想像を創造された物語の影響は受けていないと言い切れませんが、覚えているのは・・・

実際にある事を正確に受け止める という事を考える思考を持つ事

これは、自分が体験する事が 不可思議な未知というものであったらとしたら、それはそれ。
世間一般的に、それを未知と呼ぶものであるかの区別を、自分でボーダー付け分けて頭の中で分ける。

この事を考える様になったのは、小学生に上がった頃。


その前・・・

私は不思議と言われる事が、あり



 不思議?・・・ 

 ・・・どうして?

 みな・・ そうじゃないの?・・・ 



そう考えた事を覚えています。

何が常人でというボーダーか?

私の周囲に起こることは、おかしいことなのか? その理解に考える方に向く



私のはじめ


私の母が読んでくれたもの。私が大好きで覚えているものは

アリスの物語

不思議の国のアリスや鏡の国のアリス、ハンプティダンプティに グリム アンデルセン ミヒャエルエンデ
昔話を与えられた事もあるけれど、覚えているのはこちら童話が多い。
セサミストリートを見て育った事を覚えています。

その他のものはほぼ覚えなき・・・

映画関係の仕事をしている叔母に、言葉が判る前から映画の世界を、多々見せてもらった事が記憶にあります。
洋画といわれるアメリカの物ばかりで、絵本は星の王子や、セサミストリート、アンなど・・・

吹き替えが少なかった字幕の日本語も英語も・・・

絵本は、英語もフランス語も日本語も・・・

字がわかるようになると、絵本より字ばかりの小説に興味をもち、風とともに去りぬなど小学生に上がる頃は読んで、恋愛というものも性教育も、そのまま母や伯母から教えられた様な気がします。

保健の授業が始まる5年生でしょうか?
その頃はどうしたら子供ができるか?
ではなく、妊娠とは、避妊とは、そう知っていて先生に驚かれたぐらいでした。

私が、何歳で言い出したかは覚えては無いけれど、覚えているのは・・・
お母さん、4歳になったら習い事していいっていったよ。私4歳。と、4本の指を向けて言った事。
母は。ぎょっとしたと。

一番私が幼いと思える記憶は、祖父の家の柿の木の風景。

私は寝ていた。目を開けて見えたのが枯れ木に葉っぱがついていて、その葉っぱが風で揺れ落ちてきた。
窓の外に色はほぼ無い、白黒のような風景に、その空は曇っていた記憶・・・
オムツがでお尻が痒かったのも覚えている。オムツの上から履いていたパンツも覚えている。
赤と紺と白のトリコロールで母が編んだ毛糸だった。腕にピンクと赤のプラスチック珠が連なったブレスレットもしていた。

庭で祖父が私を抱いている写真を見て

『 これ、この部屋に私寝てた。 
  木がお家の後ろにあった。茶色の葉っぱが落ちて
  ボンボン時計があって、こんな形で止まってた。 』

祖父の写真の後ろ、家の部屋を指して母に言った。
左手で、ピースを出した。人差し指が短い針で、中指が長い針のつもり・・・

覚えている・・・ 1時55分だった長い壁掛けの振り子の時計。

私は2歳の誕生日の日に、2つ並んだキャンドルを見て、前は1つだけ光っていたと言った。
その1歳の誕生日、オレンジ色オレンジの。オレンジ色の重たいアルバムを指差し、ねだった事を覚えている。

その中の写真。生後1週間の写真を見て話した記憶。

母は兄を出産した時、産院から戻った日 祖母に、出産は病気ではないと言われ家事をした。
それが嫌で、私の出産後は実家にまっすぐ行ったという。


目を開けたのは生まれた時。
寝返りは、2週間。 
歩いたのは、10ヶ月。
オムツは1歳前に終わり。

なんだろね?と母親は、兄と違う女の子に、こんなもんか?と育てたらしい。
母が今でも言う・・・

お産が驚くほど楽だった。

陣痛が始まったのが夜8時過ぎで、タクシーを呼んでいる間にお風呂に入り、9時ごろタクシーで産院に一人で行ったという。ものの3時間ちょい 12時過ぎに さくっと つるっと出てきたらしい。

お兄ちゃんを見ていた祖母は、朝 妹か弟が生まれるところに行こうね。って言っていたらしい。
私の大きさに産科の先生が、おっ!と言ったらしい・・・

スーパー基準 3000g 50cm ちょうど。

1gたりとも1mmたりとも間違いない と数回計り直したらしい。

確かに私のアルバムには、母の驚きコメントがたくさん綴られている。
今でも面白いアルバムだと思う。

(もう?えぇっ!?)
勝手に寝返って転がってたので、勝手にカメラを取り出して撮ってみた!
(うぉぉ~~っ!ぱちっ。)
お父さんにカメラを触った事を、怒られませんように・・・

母のコメントが、写真に噴出しを付けてて以外に面白い。カッコは噴出しの中身。
私がしゃべっている様に見え、私が勝手に自我撮りしたかのようにしてある。
母子手帳の中もその辺の本より面白い。
胸が張ってきたようだ。初潮おめでとう。こんな歳まで、母子手帳最後のほうのMemoにずら~~っと書いてある。
その母子手帳・・・

結婚して、へその緒と一緒に持たされた。
それまで知らなかったのは・・・

 " もしかして、初体験?お相手は、 ・・君だよね♡ "

って、書かれたその歳まで母にばれていて、これにて母子手帳終了~!ENDと締めくくられていた。


1歳には、一人でおうちでお留守番。おもちゃで遊び、テレビをつけてチャンネルを回し歌って遊ぶ。
台所には一人でも行かなかった。
食器棚に捕まり立ちした時、サランラップのギザギザで手首を腕を切った事があった。
痛かったのと、直ってきて痒かったのが嫌で、キッチンは既に歩きだす前から怖かった。

そんな私をいつから信用したか? お母さんは・・・

電車を降りた駅ビルで、タクシー前にオムツを替えようと、トイレに入ったそう。
半年の私をベビーベッドに座らせ、その横にオムツなどの入ったバッグを置き、お財布の入ったハンドバッグををその上にのせ、私に・・・

見ててね。 と言ってトイレに入った。  らしい・・・

出てきたら、オムツバッグとあんただけよ。誰だった?と思わず聞いたけど、答えないし?
そんな母の言う事も言葉が分からないから言えなかった。

でも私は・・・

 人は誰だか分からないけれど、覚えていた。

冷たく寒いタイル張りのトイレ。ベビーベッドも冷たくて、木のベッド枠が背中に当たって痛かった。
お母さんが居なくて一人になったら、冷たいのと淋しいのと・・ ふっふっって泣き出しそうに成った時、おばさんが入ってきた事。
おばさんがベッドに横にしてくれて、背中が痛くなくなった。だから泣かなかった。

その時は、泣いてくれたらよかったのにという母でも・・・

そうそう、どうして~?って思う、泣き止まない時、けっこうあってね~ってな話しを、話せる様になったらよくした。

おんぶ紐がネットになってて、足を通す穴があるけれど、めんど~と足を通さずおんぶされ、イヤイヤ、通して~!と私が思った事。ブルーだった。そう返す私。
そうそうお兄ちゃんのおさがりそのままよ。よく覚えてるね。んで?と促される。

この時さ、太ももの付け根が紐でお母さんの背中にぎゅ~っと締め付けられて、痛くて泣いてた。
快適であれば、泣かないで面倒をかける事は無いという意識があったが、言葉を話せない為どうしたらいいか考えた。結果、泣くを選択した。

あぁ~、そういうこと。自分で思い返えしゃ、めんど~が多々よ。と母も言う。

でも、言葉が話せないから、どう伝えるか考えて、紐を握って泣いてアピールした。
それで、ネットの足を入れる穴を握って、叩いた。

それは、もうすぐ3歳になる2歳の私。
お正月に撮った写真を、母と一緒にアルバムに貼っていた、お正月過ぎだった。



4歳の時、バレエを始めた。


『 お母さん。 私4歳になったよ。 』


母に、4本の指を立て向けた私。
母は突然言い出した私に、どきっとしたと話してくれる。

バレエ、ばれえ と手を叩いて部屋を走り回り、柱を登り棒の様に登ったりは、すでに今までどおり。
この時はなかなか疲れないまま、一人で家中を駆け回り、とあるものを探していた。

そのとあるもの・・・

母の昔のアルバム。

私の母は、バレリーナだった。
でも母は企業に就職もしていて、続けたくても続けられない、父親(私の祖父)からのお嬢様ではないという反対に、止めざるを得なかった。そんな時代・・・
母の姉妹兄弟も、それぞれ好きなことをしていた。

私は母のアルバム、白黒や薄ぼやけた色のカラーの数々の写真をよく見ていた。
数々のくるみ割り人形の役や白鳥の湖に、創作作品の写真を見て、スタイルのいい人たちが踊る中、誰?と思うことなく、これお母さん。と指をさして、どんな衣装でもどんな舞台メイクでも母を見分けられた。

母は結婚して、兄がお腹にいるとき、と~ってもお腹がすくのよ、とにかく肉が食べたくて~・・・とそこからスタイルを崩し始め、私の妊娠中はどういうわけか、かぼちゃとコーンばっかり食べてたわ。あんたのおかげで、スタイルがちょっと戻った。と意味がわからぬが褒められた。

バレエがしたいと言い出したのは、母の数々のメルヘン写真を見ていたからで、4さいになったらね。と数字が分からないし、覚えちゃないだろうと適当に誤魔化していた母。

私が4歳になったよ。と手を向けたのは、私の生後1週間の写真と同じ日だった。
今でも覚えている。
時計を読み、時間というものが何かわからない赤ちゃん。
でも、その時計の針が指していた、角度と数字は、今でも頭の中に残っている。

私が寝ているその部屋に、人が入ってきた。

おおきな人。 私のおじいちゃん。

でも、私はこの時、祖父という認識の記憶はない。ただ、誰かがそこで何かをしていたことを覚えている。
柱の振り子時計は大きくて、その人の2/3の大きさぐらいある大きな時計。
前面にガラスの扉がついていて、上の方の時計部分、この時は6の意味がが分からないけれど、6を形だけで覚えていてる。
時計の真下にある 6 の丸に穴が開いていて、入ってきた人は時計の上に手を乗せると、ガラスの扉を開けてその6に何かを差込み、回したら・・・ 下の振り子を横に触って動かした。
カッチカッチと音が始まり、その音すら覚えている。時間を腕時計だったかポケットから出したか、覚えてないけれど、何か小さな手の中の物を見て針を動かしていた。
直ぐにボーンボーンって2つ鳴って、その大きな人は音に、私を振り返って見た事も覚えている。

その記憶は、時計が止まり 物置に置かれていたのを、遊んでいて見つけた。
お母さんを引っ張っていき

『 お母さん。この上にある鍵とって。 』

届かない大きな時計の上をお母さんに指差した。

『 この穴に入れて、ぎっぎっって、たくさん回して
  下の振り子を動かしたら、動くんだよ。おじいちゃんがしてた。 』

母の実家に母の弟の子供、私の従姉妹が生まれて見に行った時。私は2歳8ヶ月だった。
6という数字に、鍵という言葉に、どっちに回すの?とお母さんに促され、

6を指でさして、空中で描いたら
時計と同じに動く方、振り子も同じあっち。と反対の手の人差し指をくるくる時計回しに回していた。

両手で左右対称の渦を描いても、別の丸い動きができる。
よく右手3拍子、左手2拍子これを脳トレーニングとしてする親もいるだろうが、やらされたことはない。それにまだ2歳だった。

左手三角、右手四角 左右対称シンメトリーではなく、同じ方向にも、前後の立体を用いるも、3Dで腕ごとまわすと、もっと頭の回転は速くなる。

面白がって腕を回した思い出が、今でもある。

ここから自分で、何かに気づいた瞬間が始まった。

自分で考え出す事に気づいた瞬間は、生涯忘れないだろう。


この時計は、この私の生後1週間の記憶・・・
この後、どんなに巻いても壊れて動かないまま、一年経って邪魔。と年末大掃除にしまわれたものだった。
私の記憶がこの時計の最後に動いた時で、私が指した物置の中の時計の上には、もう鍵を置かれていなかった。

母が驚いたのは、鍵の位置。 

私には、この日しか知れない鍵置き場だった。
鍵がそこに置いてあったのは、子供の時のお母さんや叔父さんに叔母さんが勝手に動かさないよう、背の高いおじいちゃんが乗せたものだった。


私の祖父は・・・


明るい蒼緑色の 薄い茶色へーセル色が 眼球の周りを線の様に囲む、ほぼ青茶の瞳

身長は190cmを超える191cmの大きな人。

髪の色は黒く染めていた でも、白髪交じりの海老茶 


『 おじいちゃんのお目目は、どうして青いの? 』


お爺ちゃんの膝の上で、おじいちゃんに言ったら、はははっ。と笑い、どうしてだろう?と私に言った事がある。
それから、聞いてはいけない事があると悟ったのは、この従姉妹が産まれた時の事だった。

母は・・・

 お祖父ちゃんの髪のいろ? 

 うんうん、なんて言うの?茶色じゃなくて

 そうね~ 海老茶って日本語だったらいうのかなぁ?
 苺色っていうみたいだけど? イチゴ~ぉ? じゃないよね~。

 海の中のえび色?

 そんな感じよ


教えてくれたその色に なるほど~。 と思った記憶がある。
"海老茶"という言葉を、とっても覚えている。 大きな分類の中にさらに細かく分かれるものがあると考えた時。

12色のクレヨンの中の茶色が大きな分類で、すぐに海老茶の入ったクレヨンを欲しがった私。
でも美術専門の様な場所に出向かなければ、24色や72色ぐらいじゃ物足りない。
見ただけで、この色ではないと数種類の茶色クレヨンに文句を言った。

私の祖父の髪の色は、イチゴ色って母が言ったのは・・・
Strawberry Blonde ストロベリー・ブロンド この色の髪だと、今なら分かる。

父が買ってきてくれた、250色の色鉛筆のとりこになり、クレヨンは手が汚れるのも嫌いだった。
絵の具で手形を押すなんて、ヤバンっ!と幼稚園児になった兄に汚いから触らないでといった覚えもある。

母も私に慣れているため、記憶をよく聞いてくるようになったのは、
4歳になった。と自分で数字と記憶と色を言い出した頃の事、色や数の認識がいつから出来ているか。
私の指の出し方がお兄ちゃんと違い、んじゃ、しかたねぇ。約束もしちまったし。と母の行っていたバレエ団の中で教えている方のお教室に、たのも~と入室した。

私が母と父に向けた、4歳の指は・・・ W Peace 両手でピースを向けた事。

 あんたの勝ち

母は、負けた。と思ったらしい。


 ハサミ 見て 

父は突拍子もないことを、時々言う。チョキチョキと父も同じように両手で動かして見せ、がっと抱っこされ連れて行かれた父の机前。抱っこされた状態で、これどう?と聞かれる。

『 これは、お兄ちゃんが使った後、お母さんが使った。 』

ペン立てを指して、向きと角度、開きが違う。お兄ちゃんのリボン結び。でも、お母さんの使ったあと。だから、お兄ちゃんが先。とか方向性と癖を言い出した頃、父は笑って、じゃこれは?これは~?刑事さん。事件です!と、私が見えない上のほうをよく抱っこして見せて面白がった。

花札やトランプ、マージャンも父に、これはな、これはね。と教えられる幼稚園児になった。
親戚が集まると、一緒に混ぜられていた。その中に私の従兄弟がいる。

お正月のかるたや百人一首、神経衰弱なんかは、私と従兄弟対決みたいなもの。
従姉妹が大勢いる家庭なのでみなで遊ぶのだが、1回ごとにシャッフル。と大人が混じりガ~~っと混ぜられる。

この従兄弟は、小学生で将棋全国大会に大人に混じって出、優勝し騎士になった。テレビに呼ばれて出たりしているのを見ながら、叔父たちとポーカーやセブンブリッジをしていた小学生の私。
それによりお年玉の金額が違う。私を納得させる術は、叔父たちも伯母たちもお手の物である。

小学校に行っていた頃、進研ゼミをポイッと渡されたきり、今まで塾には行ったことはない。
それより習い事が忙しかった。
でも母は刺し刺繍が趣味で、興味を持った私にも、裁縫バニティを小学校入学前に買ってくれた。
裁ちばさみや6本よりの刺繍糸、先の丸い危なくない刺繍針
クロスステッチの生地が入れられて、パズルの様に、色を合わせてⅩ ばっかり縫っていく。
勝手に数を数えて列を作り、色を変えて絵ができるし、汚れないのが楽しいし・・・
模様や絵ができると、母がミシンでお稽古バックや手提げ袋を作ってくれる。
とても嬉しいものだった。

小学校で家庭科を習う5年生前には、一人でベッドカバーを刺繍してミシンで仕上げられるようになった。

クロスステッチを始めてから、洋裁をする母を見てミシンが使いたくて、仕方がなかった。
足が届くようになったらと言われても・・・
手縫いでバッグを作ったり、お化粧道具を入れるバニティやブラスチックの水筒のカバーや、トゥシューズを入れる袋を縫ったりもした。そのかいあってか、ミシンの方が丈夫と、立ったまま教えてもらった。

私のセーターや服をオーダーメイドといって、母がいつも作ってくれるのは・・・ 舞台衣装のようなひらひらキラキラ。さすが・・・バレリーナ。子供のつぼをついている。
リボンやレースフリルふんだん、きらきらのワンピースを着てランドセルをしょっていた。
頭は常にポニーテールかお団子でリボンふんだんお花もね。
何段にも重なるお姫様のようなスカートばかりで、同級生の母たちが子供に強請られて困っているとのお達しを先生に受け、母も学校に呼ばれた。
もしくは、スーツの様なタイトスカートにネクタイ・ジャケットだったり・・
でも、ラメ入りのベルベット素材がマギー四郎みたいで、私は自分一人で服をデパートに買いに行く小学低学年だった。それと同じ様な私の従姉妹は、中学は宝塚の学校に入って行った。

父は、お土産といって仕事から帰ってくると、焼きたてのパンやケーキにお菓子を買ってくれていた。
私が幼稚園の頃入院していて、病室でお母さんとお婆ちゃんといた時、お兄ちゃんとお父さんが入ってきた。
そのとき胸に抱えた大きな紙袋いっぱいに、チョコボールとかお菓子がモリモリ見える。
点滴中の私は、ダメ!っと母が父に、何で持ってきた!と怒りまくっていたのを覚えている。

パチンコ

という言葉はこの時初めて聞いた。
パチンコで勝ちました!と父ちゃんはギャンブル好き。お兄ちゃんを肩車して、どれがいい?と店内をぐるぐるし、勝ち漁るってな変なオジサンとしてパチンコ屋嵐 荒しではない 嵐がきたぞ!と恐れられる。

ゲーセンもファミコンも大好きだったお兄ちゃんと私、腕時計よりゲームウォッチ派。
いつもお稽古に行くとき、地下鉄の中で一人、ぱっかと開けて2段になる 緑色のグリーンハウスや、オレンジ色のドンキーコング、赤のミッキーそんな感じで持っていって時間もそれで見ていた。

旅行に行くと、なんでかな?覚えているのは、ちょ~~でかいゲーセンや賭博マシーンが置いてあるホテルばかり。もちろん日本国内、ラスベガスでない事は確かな、電車で行ける距離である。

スロットやマージャン、花札といったゲーセンのマシーン。スロットはメダルがたくさんジャラジャラって感覚を、その頃から養っている。
メダルを落とす動くやつは、見た目で判断できる幼稚園児。くだらね。とスロットばかり並んでしていた私ら兄妹に従姉兄たち。1000円ぴらっと父ちゃんにもらい、公認ゲーセンに毎晩宴そっちのけ、大人は大人で楽しんで。ってな旅行が毎年だった。

ゲーセンに飽きると、宴終わりの叔母さんや お父さんに お母さんが・・・
ホテルのバーで海を見ながら飲んでいるので、バーカウンターに座らされ、クリームソーダかつぶつぶオレンジと私が言い、マティーニグラスかフルートで。とお母さんや叔母さんのバーテンへの注文が継ぎ足され、楽しい家族旅行だと今でも思える。

お祖父ちゃんは必ずいつも旅行に一緒だった。

今見ても・・・ お祖父ちゃんの写真は、もろっ!かっこいい、水着姿っ!
なんだろ~~、やっばいぐらい色男。水着も短いサーフっぽいのにベルトとかしてて、シャツのボタンもはだけて・・・海風きらきら笑顔の写真は、大好きな写真。
ナンパされてる我が祖父ちゃんまで、お祖父ちゃん大好きな母姉妹の隠し撮りがある。

 お父さん、かっこいいよね~

ふーーってタバコを吸いながら、私の叔母さんもビーチでボソッと母に言っていた。
あぁ、じいさん。モデルさんだったのか・・・
ローライズのビキニのお祖父ちゃんも、おん歳60還暦旅行。
なんだか、母の兄弟がたくさんいるのに、納得してしまう。母方の一番年下の私の叔父は、私と一回り12しか離れていない。従姉妹の一番上のお姉ちゃんとは3つだけ。


入院中の話に戻るが、私は おまる と言うものを初めて経験した。
お兄ちゃんがオムツの外れる頃、私が臨月でお腹にいた。
母は、おまる片付け、ちょ~めんど~~ってなったらしい。
私のおまる経験はなく、まっすぐトイレ行きのやっとこ歩けた11ヶ月。壁を伝って勝手に行き、ドアノブ開けろと手を伸ばす。

入院中、小さな体の私には点滴の速度は一日ががり。
朝針を手の甲に入れられたら、初めは我慢。2日目は痛いのを覚えたので泣いてみたが、3日目も泣いても結局馬乗り羽交い絞めにされても点滴なので、4日目からはしかたね~と、痛みを我慢したようなあきらめもいい子。
針が刺さると動いてならぬ。空気が入ったら死んじゃうよ~っと母も言う。
今じゃゴロゴロ点滴を引きずって、かってに病院内を動き回れるけれど、子供の頃はできなかった。
男の子は尿瓶があれど、女の子用の尿瓶便器が、人生1回のおねしょ感覚を思い出し ものすご~く嫌で、トイレトイレ~!と我慢して、入院中に膀胱炎+便秘になる。

じゃ、これどう?と父が、持ってきたおまる。お菓子代わりのお見舞いと称していたが、それとともに、大人漫画に競馬新聞、日経やら読売に、フリテン君やらカリアゲ君など4コマ漫画。週間文集なんかをぽいっと渡される。

あぁそうそう。人生一度は体験したら?と母も進める、おまる経験の4歳。
アヒルではなく、アヒルだろうが・・・ ドナルドダック。
日本にはディズニーランドはなかったが、ポパイにディズニーにスヌーピー母や伯母が選ぶコミックは、こんな感じだった。
結局、絶対嫌!と言い切って、簡易ポータブルトイレ大人用を置いてもらい、それで日経を広げ見て、ふ~んと株式グラフに夢中になった。

お母さん?セックスってなに?姫はじめてなに?とベッドの上でエロ漫画を開き、この人たち何してるの?と数種・・・真剣エロもギャグエロも聞いて、教えてもらった4歳児の口癖は、オールドミスの浮気と人妻の~ぉ不倫がぁ~。である。
競馬の読み方は・・・と、常に勝っていた父ちゃんは、ムートンジャケットやらブランド時計やら、お土産と言って、その日の新聞もともに、結果発表のお時間ですと言いつつ持ってきた。
母ももちろん、大喜び。 競馬競艇新聞も、読み方を研究していた暇な点滴中だった。

小学校のテストは全教科、先生が調べなくてはならない事を、わざと専門的に書いてみたりの、小学生。
100点にならない事もある。先生が知らないだけですと言いに行くような・・・

医学研究者の論文などからの答えと研究結果
手術法に、経過やら、それ以外、教科書や授業でおしえてくれたのは、とおまけに全部何通りも小さいマスに書きこむ。

呼び出しをされると、質問にどこまでの範囲で書けと記してない為、心配で知ること全てを書きました。という・・・ 先生のテスト作りに関しての記されてない範囲というものを指摘する。

テスト中に質問は、どういう意味で答えを書いて欲しいのかと手を上げる。

先生、疑問が私の中に多すぎますが、答えてくださいますか?
私が思いつく答えは、幾通りです。これらの解答の中において・・・

こうして全ての答えを先生に、小声で口頭でのべ
そのうちのどれを答えとして求めていますか?と、先生に質問を向ける。

これに普通高校までの先生は、皆・・・唸り、学年会議にかけられた事もあります。
答えを口頭で述べる為、小声であっても周りの子に聞かれていると、周囲の子の答案からさとった先生は、期末テストは他の教室で、と分けられた事もありました。


頭がいいと一纏め・・ なんだその言葉?・・・

頭いい? なにその意味?

いいって何を基準なんだ?

そう思うと考えだし、止まらなくなる。


『 その言葉の適正は、違う。 』

その言葉は、そこで終わらせたいという意思表示の表れであり、とめどなく考える可能性を自己放棄に脳が向いている状態ではと・・・


先生方の会議の中で、一人異論を伝える子でした。


私の考えに異議を感じるか? 同意であるか? その答えも必要ないものではないかと・・

他人に思考を与えることは、拘留と同じ、拘束は罪の一つ。
そう思うと、必要ないと私は思うから。
必要あると自分で思うなら、どうぞ考えてください。個人の自由でいいと思うので。
人としての性格と特徴の個性・・・ 私にあると指摘するなら、先生方も個々にありますよね?

こう、質問での答えの仕方に変えた頃。

責任を自分に負う。これを考えた頃、自分に向けるものに対し、自分で自分なりに欲しいものでないと、人は満足しないと考えた時、個々の中で答えを自分で見つければいいという、質問での返答。
私が決めることではないと思えるものには、質問で自答の中にそれぞれ満足させる様促すということ。
こういった考え方を一つの案として、どうかと提示しだしていた。

偏差値というものが25-75という時代の私で、日本を離れて半生以上の為、現在はどうだか解りません。

私が行っていた高校は、偏差値75という一番の高校で、74、75の子が集まる 11クラスも1~11
成績順の学校。その1組。男女数は関係ない、40人中2人の女の子というクラス。

その中でも問題児と言われる子。

でも問題児は・・・ 学校にとって問題だったのか?・・・

この高校での一番初めの日。
授業ではなく、テストだった。

今まで事あるごとに病院で何度もやらされた。知能テストにIQテスト。

自分のIQ数字は、幼稚園の時には知っていた。
その意味が何かは知らなかったけれど、数字が大きいほうがいいだけ、お母さんが教えてくれたこと。


なんでもいいさ~ 私は私
点数を教えてもらえない 知能テストは、大好き。

高校で初めのこれは、適正テスト

どの様に進学し、どの職種にあっているか といった知能テスト+体力テスト
私は身体能力も優れている。
誰にも今まで負けないぐらい、努力を積んで体を作ってきた。

アレルギーが見つかり、胃下垂気味、幼稚園前、自律神経失調症と診断されて、入院中死にそうだったことも多々。
その度に蘇る自分・・・
喘息気味の呼吸器や体に精神を鍛えるには、バレエやダンス、その他の習い事も多々あったけれど、あまりに忙しく小学生の頃から神経性胃炎になる。
タケダ神経性漢方胃腸薬に大田胃酸は漢方ならば混同OKと自分で判断し、自分の常備薬とともに常備して、給食の三角パック牛乳で飲み、粉によく咽せていた。

垂直とび50cm越えとかって言いつつジャンプ計測ギリちょんに、柔軟性も計りが壊れるその下へ、これ以上身長がありませんのでもう無理ですの限界まで。
もうすでにプロバレリーナとして舞台でギャラももらっていたし、自分の通うスタジオでも、自分のクラスを持たされた14歳の先生だった。

私のバイト経験は、一番初めは雑誌の取材から始まった。ギャラというものをもらう子役活動もし、海外公演にも大人に混じって連れて行かれ旅費にギャラを貰っていた小学高学年。

男性バリエーションも難なくこなせる、あほの様な私に、体力検査は当たり前。
呼吸を乱し切らす、目が回る そんなわけないだろ考えろ!って自分で思っているほど、よく細いのにスタミナとパワーが出るよね。と褒められても嬉しくなかった。


当たり前じゃん?

違うの?・・・

何が・・・・?

ここまでと目盛りがあるなら、そこまで行かなきゃいけないもんじゃ?


・・そう思っていた私の頭が、おかしいんだろうか?



計測範囲を超えるって、計測できる範囲内に想定されていることが許せない。


 自分の可能性を、なめんな。

 誰でもできる。限界を超えようと思う気持ちはさ。誰だって。


でも、私は・・・
誰にもこの気持ちだけは、超えられたくない。

そんな風に、垂直とび板に向かって思うような子。



標準? なにその部分。

私は産まれた時、スーパー標準見本みたいな赤ちゃん。

標準というその部分が、ど真ん中として、それより上ではなく

計測不能 数字の出ない知能テストのように、数字の無い部分が大好きだ。



 数字 いらない・・・


 数字 出ない・・・・


これ・・ 私の胸の中でジンジンと、震える感覚が沸いてくる。



私は、転校しました。
迷惑?いいえ、自分の意思は、私と同じ様な子ばかりの学校に。


これは、この様な子ばかりが集まった、アメリカンスクールでの始まりか・・・


私のこの学校時代の友達は、全員 同じ様に

問題児 と言われるほどの思考を個々に持つ。

私の夫も、そのうちの一人・・・













* From far away beyond . . .most beautiful sea in the
BLUE MARBLE Prologue-Dos *






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mimi's world from Ren Tsuruga and Chuehonn Hizuri
Love Letter from RT and CH

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